LOGIN十二月初旬。向かいのビルに灯りが増え始める頃、INUI本社最上階の社長室も、窓の外が暮れてもなお、明るく照らされていた。
机の上には、シカクイの催事報告書が三部。売上に加え、費用を差し引いた利益、再来店予約の件数、その後の問い合わせまで記されている。 秘書に数字を確認させ、直人自身も朝から二度読み返した資料だ。 父に何を問われても答えられる。紙束の角を揃え、直人は表紙に記されたINUI Jewelryの文字を指でなぞった。 「会長がオンライン会議に接続されました」 秘書が端末を操作すると、壁のモニターに父が映った。背後の窓には、漢江越しに広がるソウルの夜景があった。父は眼鏡を外して机に置き、画面越しにこちらを見た。 「それでは、失礼します」 秘書が席を外し、社長室の扉が静かに閉まる。密閉された室内には、空調の音だけが残った。 「早速ですが、催事の結果です。事前にメールで共有した資料は届いていますか」 「軽く目は通した」 直人は報告書の一枚目を開いた。数字を追いながら、HIMUROの会議室では、十一月末に開かれたシカクイ催事の報告が共有されていた。 「INUI Jewelryが中心となって開催した今回の催事は、予想以上の反響だったようです。これまで宝飾売場に足を運ばなかった層の来場も多かったように見えると、常設店の店長から報告を受けています」 瀬原の説明に合わせて、モニターの画面が切り替わる。アトリウムを埋める来場者の列からは、今回の催事がINUI主体だったことがひと目で分かった。その隣には、直人の写真を載せた簡易的な速報記事が映し出されている。 新たな価格帯の商品を前面に打ち出し、社長自ら再来店の予約を受け付けたという。記事の見出しからは、INUIの成功を疑う余地など感じられなかった。 ――直人さんが……。 実際、成功したのだと思う。珠希も、かつてあの会社で働いていた。催事の準備にどれほど人手がかかるかも、数字が出るまでは立場が下の者ほど気を抜けないことも知っている。だからこそ、すぐには信じられなかった。INUIが成功したことではない。あの直人が、自ら現場に立ったという事実を。 お客と向き合う直人の写真から目を離すまで、少し時間がかかった。 INUIに入社し、籍を入れたばかりの頃。珠希がデザインしたジュエリーを、直人は誇らしげに新たな看板シリーズとして打ち出した。売上が伸びれば、珠希も嬉しかった。けれど、いつからだったのだろう。珠希が直人の期待に応えようとするほど、彼の態度は冷え込んでいった。まだ数字が足りないのだろうか。やればやるほど、外へ向けて語られる成果だけが直人のものになり、その一方で、二人のあいだの壁は厚くなっていった。 ――その呼び方、やめろ。学生気分か。社長の嫁の自覚を持てよ。 なかなか子どもができず苛立っていた直人に、抱かれながら言われた言葉だった。『直くん』と呼ぶのをやめた。その後、妊活は人工授精へ進み、二人が触れ合うこともなくなった。 それでも珠希は、直人の隣に立っていた。彼を輝かせる飾りのように。 「INUI Jewelryの企画は成功した」 雪臣のストレートな発言に、数人が資料から目を離す。 「HIMUROは、それを知った上で予定どおり進めます」
十二月初旬。向かいのビルに灯りが増え始める頃、INUI本社最上階の社長室も、窓の外が暮れてもなお、明るく照らされていた。 机の上には、シカクイの催事報告書が三部。売上に加え、費用を差し引いた利益、再来店予約の件数、その後の問い合わせまで記されている。 秘書に数字を確認させ、直人自身も朝から二度読み返した資料だ。 父に何を問われても答えられる。紙束の角を揃え、直人は表紙に記されたINUI Jewelryの文字を指でなぞった。 「会長がオンライン会議に接続されました」 秘書が端末を操作すると、壁のモニターに父が映った。背後の窓には、漢江越しに広がるソウルの夜景があった。父は眼鏡を外して机に置き、画面越しにこちらを見た。 「それでは、失礼します」 秘書が席を外し、社長室の扉が静かに閉まる。密閉された室内には、空調の音だけが残った。 「早速ですが、催事の結果です。事前にメールで共有した資料は届いていますか」 「軽く目は通した」 直人は報告書の一枚目を開いた。数字を追いながら、限定仕様の価格を決めた経緯、販売員を配置した理由、当日の動きを順に説明していく。 その間に何度か父の表情をうかがったが、父は直人を見ることなく、膝に飛び乗ってきたシャムネコの背を慈しむように撫でていた。 途中で口を挟まれないうちに、用意した資料の説明を進めた。 「利益は目標を上回りました。館内の宝飾部門でも首位です。別の商業施設からも、商品展開について問い合わせが来ています。成功した、と断言できます」 父の視線が画面の下へ落ちた。手元の資料を見ているらしい。直人は膝の上の拳を開いた。 ――ならば結果で証明しろ。 あの日、家の居間で投げられた言葉に、ようやく答えられる。 「そうか」 父は資料から顔を上げた。 「それで?」 一拍、直人は声を失った。 「……それで、って」 「数字はこの資料に書いてある」 「…………」 「次の戦略がないなら時間の無駄だ。俺は暇ではない」 短く返すと、父は画面の外へ視線を移した。別の予定でも確認してい
十一月二十五日。 渋谷シカクイのメインアトリウムに、各社のブライダルジュエリーが並んでいた。ドレス店の展示を挟み、奥には写真館の相談席もある。客は一つの店で決めなくても、館内を回って品を比べられる。 「開店まで十分です」 秘書から報告を受け、直人はスマートフォンを取り出して時刻を確認する。その下に表示されていたメッセージに既読をつけて、端末を再びジャケットへ仕舞った。 ――直ちゃん、ファイトだよ! えいえいおー! ルリカからの応援だった。 今週、妊娠八か月に入ったルリカは、体調を優先して今回の催事には同行していない。今朝出発前にルリカを抱きしめたとき、大きくなった彼女の腹越しに感じた子どもの胎動を、直人ははっきりと覚えていた。 九月下旬、ルリカがつないだ縁を足掛かりに直人が臨んだ商談は、実施を見据えた協議へ進んだ。一歩前進したことに変わりはない。けれど直人にとっては、まだそれだけの小さな進歩だった。 その後、シカクイの担当者がINUIのショールームを訪れ、費用と参加店舗の調整を始めた。 ここからが、本当の戦いになるはずだった。 氷室の周年記念企画が始まる来年四月より前――三月までに企画をねじ込もうと、直人が各部長を動かし始めた十月一日。シカクイ側の上層部から、十一月下旬にフェアを開催できないかというオファーが入ったのだ。 ――いくらなんでも早すぎないか。 直人は秘書を通じて、シカクイ担当者に、会場と人員の確保が間に合うのか確かめた。冬の販促用に押さえていた枠を使える、館内の店舗にもこれから話を通す、という回答だった。もともと進行中だった類似企画に穴が開いたのか。しかし、類似企画が十一月に行われるといった内容は、シカクイ側の公式情報では告知されていなかった。 つまり、なぜそこまで急に話が進んだのか、納得しきれていないところがあった。 ただ、決まった日を変えられないなら、間に合わせるしかない。 ――できない理由はいらない! 間に合わせる根性を見せろ! 企画の確定から今日までの約二か月間、何度、社員を怒鳴りつけたか分からない。 珠希
氷室百貨店・本店会議室。 百貨店側との周年記念企画の打ち合わせを終え、ほかのHIMUROの担当者たちは展示備品の確認を続けるため会議室に残った。 今日の会議で二人が受け持っていたのは、珠希が『環愛』の説明、雪臣が展示方針の確認までだった。用件が終わり次第、二人は先に会議室を出て、帰社するため、瀬原が車で迎えに来るのを待つことになっている。 「お先に戻ります」 珠希は残る人たちに頭を下げ、雪臣と一緒にエレベーターへ向かった。 初めて展示場所を見に来たときは、まだ商品化が決まっていなかった『環愛』。今日はその担当者として、実際の展示に向けた話をしてきた。エレベーターの鏡に映る自分を見て、少しだけ背筋を伸ばした。 正面玄関を出ると、風が頬に当たった。十一月に入って、日が傾くのも早くなっている。 「もう、かなり寒いね」 思わず肩をすくめた珠希の隣で、雪臣がスマートフォンを見た。 「瀬原から」 「どうしたの?」 「渋滞で、十五分ほど遅れるそうだ」 「そっか。じゃあ、中で待ってようか。ここ、風が通るから寒いもんね」 雪臣は頷くと、杖の向きを変えた。二人は百貨店へ引き返す。クリスマス商戦が始まった館では、入口がゴールドやシルバーの華やかな電飾で彩られ、名物の高さ七メートルのクリスマスツリーが来店者の足を止めていた。 百貨店に入ってすぐの雑貨売り場では、冬の食卓を飾る食器の特設販売が行われている。 湯気の立つ飲み物のPOPを見て、珠希はふとあることを思い出した。 「あ、そういえば」 「どうした」 「雪臣くんのマグカップ、私が使っちゃってるよね」 珠希が今使っているマグカップは、もともと雪臣が使っていたものを譲ってもらったものだ。紅茶用のティーカップは別にあるが、雪臣は今も毎朝、グラスで冷たい飲み物を飲んでいる。 珠希は棚に並ぶ色を見回した。 「寒くなってきたし、一つ買っていこうか」 「あぁ、そう言えば、そうだな」 「瀬原さんが来る前に選ぼう」 少し先に、取っ手の丸いマグカップが並んでいた。シンプルな無地で、色は全部
土曜日の夕方、氷室家の本邸を訪れると、玄関には白い花が飾られていた。控えめな大きさながら、葉の向きまで美しく整えられている。玄関を上がり、三板に案内された食堂も、今日のために隅々までしつらえられていた。 白いクロスの上には、縁に細い金彩を施した皿と磨かれた銀器が並び、その間に秋の花が低く生けられていた。向かいに座る人の顔を遮らない高さだった。 上座には雪茂が座り、秋夫と日美呼、悠乃介も席に着いている。珠希の隣には雪臣が座った。親戚を招いてのお披露目ではなく、今夜は家族だけで二人をゆっくり祝いたい――雪茂の望みで設けられた席だった。「改めて、二人の結婚を祝おう」 雪茂がグラスを上げた。 珠希もグラスへ手を伸ばしかけ、ふと動きを止めた。シャンパンの細かな泡が、絶え間なく立ち昇っている。直人と結婚し、妊活を始めてから、酒の入ったグラスに触れることは長らくなかった。 ――そっか。もう、飲んでもいいんだ。 隣の雪臣と目が合った。彼は何も言わず、珠希がグラスを手に取るのを静かに待っていた。「ありがとうございます」 珠希は隣の雪臣とグラスを合わせた。ほかの席でも、控えめな音が続いた。 家政婦たちによって温かい前菜が運ばれ、食事が進むころには、使い終えた皿が静かに替えられた。「いやぁ、本当にめでたい! しかも新しい指輪の商品化まで決まったそうじゃないか!」 珠希に向けて、秋夫が嬉しそうに言った。「ありがとうございます。私だけではここまで来られませんでした。雪臣さんや、先輩たちにも、随分助けてもらって」「それでも、最初に作ったのは二人だろう」 雪茂は、珠希と雪臣の左手へ順に目を向けた。「あの日、これは二人がこれから身につけていく指輪だと言ったな。その思いが、今度はほかの人にも届くのか」「大切に育てていきたいシリーズです」 雪臣がそう答えると、雪茂は目を細めて「そうか」と頷いた。「格式あるHIMUROにふさわしく、長く顧客に愛される商品にしてくださいね。育てる前に終わってしまっては困りますから。雪臣さん」「はい」 日美呼に名を呼ば
商品企画本部長の承認が下りれば、『環愛』の商品化が決まる――。 氷室百貨店を見学してから数日後の金曜日。珠希はブライダル部門の打ち合わせスペースで、提出済みの資料をもう一度めくった。そこには、修正を重ねた基本形と、選べる幅や仕上げ、価格と納期の目安、将来のサイズ直しに対応できる範囲も記してある。 デザイン部長の岸部はデザインと制作工程を確認し、ブライダルデザインチーフの不二子は売場で扱えるかを見た。指摘された箇所を珠希が直し、ようやく最終決裁まで辿り着いた。 もう、今から直せるものはない。それでも気になってしまう。「見すぎよ。紙に穴が開くわ」 向かいに座っていた不二子が、腕時計をちらりと見た。十七時四十二分。今日も十八時になれば、きっぱり帰るつもりらしい。「不二子さんにいただいた店頭の相談例、すごく助かりました」「だって、そのためにまとめたんだもの。そもそも、あなたの案がなきゃ、存在すらしなかった資料よ」 不二子は机上の二本の試作品を指で示した。 異なる形のリングを、同じ形に揃えることなく対として選べる。珠希と雪臣のために作ったマリッジリングから、考え方だけを受け継いだものだ。 最初の二本を不二子に見せた日、サイズ直しについて問われ、珠希は答えに詰まった。目の前の試作品には、そのとき出せなかった答えも形になっている。「やっぱりねぇ、ブライダルは特にだけど、難しいのって、お客に選んでもらう瞬間だけじゃないと思ってる」 ふと、不二子が試作品を眺めながら、呟いた。「サイズ直し、ですよね」「あ、まぁ、それもあるわ。けど、それだけじゃなくて。十年前に買った指輪を持ってきたお客がいてね。傷だらけになったから、綺麗にしたいって」「磨き直しですか?」「そうよ。でも、その人、傷を全部消してほしいわけじゃなかったの。真ん中にある一本の深い傷だけは残してほしいって」「どうして……」「ご主人と初めて本気で喧嘩して家から飛び出したときに、塀にぶつけてできた傷なんですって。今となっちゃバカみたいな話だけど、それも含めて夫婦の歴史、なんて笑ってたわ







